希死念慮と離人感とスキップする【初出:2020.9.11】

わたしの記憶には欠けている部分の方が多くて、思い出そうとすることには苦痛を伴う。


希死念慮離人感という言葉を知ったのは、正社員として働いていた頃、あまりにも仕事ができなくて、インターネットで見かけた発達障害という言葉が自分にも当てはまる気がして、図書館で本を漁っていた時だった。

えっそれ昔しょっちゅうなったし、希死念慮ならもう10年以上感じているけど?と思った。

そう、わたしは記憶がある限りでも小学校中学年の頃からすでに精神的な症状が出ていたのだった。ひとに言ったことはなかったから、それが医学的に存在する症状であることを知って、けっこう驚いた。離人感というネーミングに言い得て妙だ、とすら思った。


前の「死ぬことを選択しなければ生きたくなくても生活は続く」でも書いたけれど、離人感というのはわたしの場合地面から5センチくらい浮いているような気がしたり、なんとなく意識が頭のちょっと上にあるような、幽体離脱みたいな気分になることだ。なにもかもがぼやん、として現実味がなくなる。

希死念慮は、死にたい、という気持ちに頭が支配されるとでも言えばいいのだろうか。実際に死のうとしたり、体を傷つけたりはしない。ただ死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい……という思考の沼に溺れて、出てこられなくなる。

どちらも完全に消えることはなくて、たまに遊びにきたよとでも言いたげに現れる。


正社員として働いていた会社を退職するために出してもらった診断名は適応障害だった。けれど離人感と希死念慮が子どもの頃からあったことからわかるように、わたしの精神はかなり初期の段階から壊れていたのだと思う。

幼い頃から家族の中で自分ひとりだけが殴られ、怒鳴られ、長時間膝詰めの説教をされる、その理由はわからなかった。朝になれば叩き起こされてジョギングをさせられる。怒られている間、わたしが父親の気に入らないことをしたことだけはわかり、「自分は悪い子だ」という認識だけが育った。

その怯えが滲み出して、小中高と直接的間接的にいじられたりいじめられたりシカトされたりハブにされたり、まあだいたいのことはされたと思う。

それでも家にいるよりは学校でいじめられる方がよっぽどマシだったから、学校は殆ど皆勤賞だった。家と学校以外に行き場がなかったし誰も──スクールカウンセラーもなんなら先生も──味方ではなかったし助けてもくれなかったけれど、通い続けた。せめてあの時、精神科に連れて行ってくれれば、と言っても仕方ないのだけれど。


前の記事は母親の話だったのに今度は父親の話。わたしにとっては過去の話で、処理は終わっているから書けるけれど客観的に読むとものすごい家庭だな、と思う。──書いていないこともたくさんあるのに。


そんな人生の続きを、今日もなんとか生きています。

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