ライター・真野いずみとは

【プロフィール】

平成1桁生まれのゆとり世代。シス女性ですがXな時もあります。バイロマンティック、アセクシュアル

【執筆経験】

かがみよかがみ(朝日新聞社運営サイト)(2023年〜)
真野いずみ記事一覧 | かがみよかがみ

b-LIGHT(2023年〜)

https://https://blight-japan.com/manoizumi-profile/

パラちゃんねるカフェ(2023年〜)

[https://https://www.parachannel.jp/column/parties/23240/]

ラゴンジュルナル(運営終了)生い立ち・それにまつわるエッセイ(2020年)
ポートフォリオ - 真野いずみ 

【執筆環境・機材・使用可能ソフト等】

MacBook Pro
□ミラーレス一眼カメラ(ソニー
取材撮影→少年Bさん執筆記事【新型コロナの影響は?】福島の団体宿泊施設「ルネサンス棚倉」の魅力とこれから | SPOT
Adobe:IllustratorPhotoshop
MOS:Word・Excel取得
□図書館司書資格


幼少期から父親に身体的・精神的虐待を、母親から教育虐待・過干渉を受けて育ちました。また面前DVも多く受け、諍いの多い親戚関係の中で過ごしました。

営業事務として勤務後、期間雇用公務員を経験。その後独学でIllustratorPhotoshopを習得し大手外食チェーンにてWebサイト更新の業務に従事。

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バイバイ、ママ

医学部に入るため10年近く浪人させられてしまった女性のニュースを見た時、これほど私に似た人がいるのか、と思った。肉体的に虐げられることはなかったが、私も、なにをしてもどうやっても「母の理想の娘」にはなれなくて、母の要求に応え続けていた。

母は新卒で公務員試験に失敗した私に、ずっと手を変え品を変えありとあらゆる公務員試験を受験するように要求した。途中、どうしても家を出たくて違う方向性を提示したものの、母の要求するハードルは越えられず結局公務員試験の勉強に戻ることになった。かれこれ何年やっていたのだろう。根本的に逆らう、という選択肢は浮かばなかったし、じゃあ○○は、次は××を……とたたみかけどこまで行っても満足することのない母は、収入の高い夫がいる知り合いと張り合いたかったのか、近所で自慢をしたかったのか、わからない。

 

幼少期の私は“いい子“ではなかった。そして諍いの多い家の中で、できるだけ責められることを避けようとする癖がついた。しばらくして父が家を出ていき、家の中は母と私だけになって、母の干渉は加速していった。17時をすぎれば「今どこにいるの」とメールがきて、出かけるといえば「誰とどこに行くの」と聞き、友達の話をすれば友達の交際相手にまで母の基準で批判した。

そもそもよほどのことでなければ友人のことから職場のことまでほぼすべて母に話していた時点でかなり歪んでいるな、と思う。けれどその時はやめようと思ってもやめられなかった。

母の要求は就職に留まらなかった。髪を染めるな、ピアスを開けるな、短いスカートを履くな、爪を塗るな、化粧をするな……。正直、母の禁止のせいでいわゆるスクールカーストが下の方だったことは否定できない。高校を卒業してもその規範が緩むことはなかったが、逆らわずにいた。引き出しを漁って「これいつ買ったの」「これいくらしたの」と聞いてくる母に、素直に答えていた。逆らう──なんとなく、自分にそんな権利はないように思えた。とにかく母に従わなければいけない、母に嫌われないようにしなければ、怒られないようにしなければ、ただただそう思っていた。

しかし私は公務員試験の一次試験を通ってもその先採用されることはなく、何年も続く生活にだんだんだんだん苦しくなり、SNSで知り合った何人かの友人に相談すると、「やばいよ」「逃げた方がいいよ」と言われた。

そうか、私はお母さんにとって“いい娘“、というか“母の子ども“である必要はないのか。しばらく図書館で母娘関係の本を読みあさり、自分と母の関係性の異常さを認識し、仕事を辞めて家を出た。

 

家を出て最初にしたことは髪を染めてピアスを開けることだった。やってみれば大したことはなくて、母が言っていた「ピアスを開けると○○になるよ」なんてことは起きなかった。今でもきっと、母は私が家を出た真の理由をわかっていないだろうと思う。わからないまま死んでいくのではないかとも、ジェルネイルを施した爪を見ながら思う。

 

私がとらわれていた「しなきゃ」

LIFULL STORIES
by LIFULL STORIES

満ち足りたと思う日は来るのか【初出:2020.12.5】

きょう、電車で向かい側に座った親子連れの、小学校一年生くらいの女の子がセボンスターの指輪とペンダントを着けていて、羨ましかった。セボンスターをねだって買ってもらえることも、着けてお出かけができることも。女の子が話しかけた時のお母さんの顔も、慈愛や母性という言葉では括れない温かい感情に満ちていた。それらはわたしが受けずに育ったもので、この先どうやっても手に入れられないことはわかっていて、わたしはその女の子がそのまま幸せに育つことを願うくらいしかできなかった。


*


幼少期に多少与えられた愛情は、一回の暴力でいともたやすくマイナスになる。自我が芽生えてから記憶のある限り、20歳を過ぎても続いた暴力(性)は、わたしを愛着障害にするのに十分だった。

父に殴られたり怒鳴られたりしている間、味方──とは言えなくても最終的にかばってくれるのは母だけだった。そんな状況が思春期のすべてを占めていたから、わたしは長く母の過干渉の異常さに気づかなかった。成人し、数年が経ち、気づいたわたしが親離れをした今も、おそらく母は子離れをしていない。

愛着障害という概念は、成人に対しての定義はDSMにはない。だがたとえば岡田尊司愛着障害──子ども時代を引きずる人々」にはたくさんの著名人の事例が紹介されていて、確実に成人にも当てはまるのだとわかる。不安定なまま、歳を取らざるを得ない人びと。


『「あまり愛されなかったと思うの?」

 彼女は首を曲げて僕の顔を見た。そしてこくんと肯いた。「『十分じゃない』と『全然足りない』の中間くらいね。いつも飢えてたの、私。一度でいいから愛情をたっぷりと受けてみたかったの。もういい、おなかいっぱい、ごちそうさまっていうくらい。』(村上春樹ノルウェイの森講談社文庫上巻159ページ)


この本は初読から10年以上経っていて、数え切れないくらい読んでいる。

親に与えられなかったものを思うとき、緑の、この台詞にはとても共感する。

さすがに抱っこもせずに育てることはできないだろうから、わたしも多少は愛情を持って育てられた、と思う。おそらく。親が愛情だと思ってしたこともあっただろう。だから“『十分じゃない』と『全然足りない』の中間くらい“なのだ。


ゼロか100かではなく、不十分と不足の間。殴られはしても家の外で夜を明かしたことはないし、習い事もさせてもらった。小中高と修学旅行に行って進学もした。

けれど、たとえば顔を蹴られたり必要なものも買ってもらえなかったり、家にいると1時間に1回は小言を言われたり働き出しても19時や20時になると早く帰れというメールが届いたり、した。

もちろん十分ではある。ネグレクトではない。けれど夥しい暴力(性)を浴びて、からからに渇いたまま、わたしは家を出た。


今、幸運なことにわたしには恋人がいて、さらに幸運なことに愛情をたっぷり受けている。それでもおなかいっぱいにはならない。愛情を受け止める場所が壊れているのだと思う。穴がたくさん空いたバケツみたいに。

恋人からの愛情を感じて、とどめておきたいと思う。思うのだが、マイナスが大きすぎるのか、バケツがなかなか直らないのか、両方だろうか。

自分に起こるいろんな問題の根っこが親との関係性にあるのだと気づき、なんとかしようともがき続けて数年が経つ。自分一人で自分の傷を抱えて癒やすのはとても難しい。バケツの穴をふさぐところまで、行かないかもしれない。それを満たすのは、なおさらだ。

最終的に「ノルウェイの森」の主人公と緑は(いちおう)結ばれるのだが、緑がおなかいっぱいになる日はなかなか遠い気がする。たとえ完璧なわがままを聞き届けられても、一度では難しいだろう。でも主人公が完璧なわがままも普通のわがままも許容して、そばに居続ければおなかいっぱいになれるかもしれない。


わたしも、二つ目の記事を書いた頃はまだなんとなく厭世的で、生きていたいと積極的に思ってはいなかった。最近はそれが少し変化して、「せっかく好きな人と二人で生きているから、できるだけ健康で長生きしたい」と思うようになった。恋人に言ったら驚かれたけれど。完全な癒しは遠くても、他人に心を開いて、受け止められたことが少し傷を治したのだと思う。

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マタニティマークが怖い【初出:2020.11.2】

子どもの声が苦手だ。とくに、泣き声が。ショッピングモールなどに行くとあちこちで子どもの声がする。声をあげて走り回る子どもたち。きゃあきゃあとはしゃぐ子もいれば親に抱き上げられてもなお泣き喚く子もいる。

どこにでもある光景、いつもの日曜日。


一見平和なその光景と裏腹に、わたしの中に暴力性が沸き上がる。

頭の中に浮かぶことを打ち消し打ち消ししてなんとかその場をやり過ごす。だから、基本的に子どものいる場所には行かないようにしている。


今となっては、父がわたしに暴力をふるったのもなんとなく理解できる。同じものが自分の中にあるからだ。わたし以外の子どもにはそうしなかったのは、たぶん、父も長子で同じことをされていたからだろう。父の母、つまりわたしの祖母もまた、厳しい親に育てられた長子だった。そう気づいた時、子どもは絶対に産まないと決めた。産めば、父と、祖母と、同じことをするに決まっていると容易に想像できたからだ。

 

保健体育の授業で子どもが産まれる過程のビデオを見た時、言いようのない気持ち悪さがあった。生殖に対しての忌避感は、その後強くなったり弱くなったりして、ある時はアセクシャル※自認という形で現れたりもした。


妊婦用の制服を着た同僚の、お腹が膨らんでいく恐怖を誰にも言えず、泣きそうな気分で同じ部屋で仕事をしたことがあった。職場の誰もが彼女の妊娠を祝っていた。親しくなかったことも一因ではあったけれど、わたしは何も言えなかった。

連れ添って歩く男女の、女性の革のバッグに不似合いなポールチェーンを見つけた時。子どもを連れてマザーズバッグにマタニティマークをつけている人。電車で立ち上がった人のリュックサックにマタニティマークがぶら下がっていた時。

今も状態によっては妊娠している人やそのマークを見るだけで精神的な安定を欠くほどに、子どもと、子を産むということはわたしにとってあまりにも恐ろしいことであり続けている。

こんなにも強い恐れがあることをあっさりと遂行してしまえる、そのことがわたしには怖い。


頭ではわかっているのだ。暴力も暴言も抑圧もない家庭で育つ子どもの方が多いのだと。それでも、他人の妊娠にさえ怯えてしまう。マタニティマークはわたしに親と子、という組み合わせがこの世に増えてしまうことをまざまざと見せつけてくる。──妊娠中であること、すなわち出産前であることをアピールするマーク。ほほ笑むお母さんがプリントされた、優しげな、ピンク色のマーク。たとえば赤と白のヘルプマークよりも、ずっと世の中に浸透しているそれが、怖い。

 

 

アセクシャル:無性愛。性的欲求や性指向を持たないセクシュアリティ。恋愛感情の有無や強さは人によって異なる。

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希死念慮と離人感とスキップする【初出:2020.9.11】

わたしの記憶には欠けている部分の方が多くて、思い出そうとすることには苦痛を伴う。


希死念慮離人感という言葉を知ったのは、正社員として働いていた頃、あまりにも仕事ができなくて、インターネットで見かけた発達障害という言葉が自分にも当てはまる気がして、図書館で本を漁っていた時だった。

えっそれ昔しょっちゅうなったし、希死念慮ならもう10年以上感じているけど?と思った。

そう、わたしは記憶がある限りでも小学校中学年の頃からすでに精神的な症状が出ていたのだった。ひとに言ったことはなかったから、それが医学的に存在する症状であることを知って、けっこう驚いた。離人感というネーミングに言い得て妙だ、とすら思った。


前の「死ぬことを選択しなければ生きたくなくても生活は続く」でも書いたけれど、離人感というのはわたしの場合地面から5センチくらい浮いているような気がしたり、なんとなく意識が頭のちょっと上にあるような、幽体離脱みたいな気分になることだ。なにもかもがぼやん、として現実味がなくなる。

希死念慮は、死にたい、という気持ちに頭が支配されるとでも言えばいいのだろうか。実際に死のうとしたり、体を傷つけたりはしない。ただ死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい……という思考の沼に溺れて、出てこられなくなる。

どちらも完全に消えることはなくて、たまに遊びにきたよとでも言いたげに現れる。


正社員として働いていた会社を退職するために出してもらった診断名は適応障害だった。けれど離人感と希死念慮が子どもの頃からあったことからわかるように、わたしの精神はかなり初期の段階から壊れていたのだと思う。

幼い頃から家族の中で自分ひとりだけが殴られ、怒鳴られ、長時間膝詰めの説教をされる、その理由はわからなかった。朝になれば叩き起こされてジョギングをさせられる。怒られている間、わたしが父親の気に入らないことをしたことだけはわかり、「自分は悪い子だ」という認識だけが育った。

その怯えが滲み出して、小中高と直接的間接的にいじられたりいじめられたりシカトされたりハブにされたり、まあだいたいのことはされたと思う。

それでも家にいるよりは学校でいじめられる方がよっぽどマシだったから、学校は殆ど皆勤賞だった。家と学校以外に行き場がなかったし誰も──スクールカウンセラーもなんなら先生も──味方ではなかったし助けてもくれなかったけれど、通い続けた。せめてあの時、精神科に連れて行ってくれれば、と言っても仕方ないのだけれど。


前の記事は母親の話だったのに今度は父親の話。わたしにとっては過去の話で、処理は終わっているから書けるけれど客観的に読むとものすごい家庭だな、と思う。──書いていないこともたくさんあるのに。


そんな人生の続きを、今日もなんとか生きています。

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