死ぬことを選択しなければ生きたくなくても生活は続く【初出:2020.7.23】離れても続く、母の呪い。同性同士という関係の特殊性。

わたしはずっと死にたかった。道路を走るトラックを見て、信号待ちをしながら「今飛び込めば死ねるかも」と初めて思ったのは10歳くらいだった気がする。自分がなんだか5センチくらい浮いていて、なにもかもがぼんやりしているような気がし始めたのもその頃だ。

それが希死念慮離人感と呼ばれるものであることに気づいたのは10年以上経ってからだった。

その頃からずっと自分の人生は高校3年生で終わるのだと思っていて、今思えば生き延びるだけで精一杯なまま高校生活は終わり、四年制大学に行かない人の方が珍しい学校で肥大したプライドとそれに伴わない学校名が18の春、わたしの手の中にあった。

なぜ高校を卒業した後も生きているのかわからないままわたしは二年制の学校を卒業し、予備校の甲斐もなく試験に落ち、就活も失敗した。

それでもなんとなく、という理由で動いたことはなかったと思う。女親からの期待をあたかも自分のもののように錯覚し、もがいて足掻いて応えられず、応えられないことで自分を責め続け、正社員として働いた1年でついに精神を壊した。

否定し続けたありとあらゆることが発覚した後でもその人──母だ──はそれを認めようとはせず、自己の一部としてわたしを見続けた。非正規でどんなに働こうと一切認めず、さらなる期待を押し付けるだけだった。

そんな幼少期から成人を過ぎても続いた日々はいつしかインナーマザーとしてわたしを苛んでいて、逃れ離れるためのカウンセリングには数年を要した。


いつまでもいつまでも押しつけら‪れる期待と要望に耐えきれずわたしはそれを捨てた。家と、家族。地元にいい思い出はなかったから躊躇はなかった。

そうして殆どすべてを捨てて自由になったはずなのに、それでもここまで生きてきた意味は見出せず、この先どんな人生を生きたいかもわからない。主体性のない人生だった、と思う。どうやって考えればいいのかもわからないのだ。


ただ、死にたくはない。希死念慮があった時もなくなってからも死のうとしたことはなかった。でも生きたくて生きているわけではない。なぜか親が産んでしまって育ってしまった、結果としてわたしが今ここにいるだけだ、という気がする。


それでも、辛かったり時々幸せだったりする日々は流れていく。生きたいと思える日は、まだ少ない。

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